フランス、ロレーヌ地方の中心都市ナンシー。この歴史と文化が息づく街にあるナンシー美術館は、17世紀ヨーロッパ美術の宝庫です。特に本稿では、後期バロックの傑作群に焦点を当て、その豊かな表現世界へと皆様をご案内します。力強い写実主義から、豪華絢爛な宮廷絵画、そして静謐な宗教画に至るまで、多様なスタイルが花開いたこの時代の美術は、まさに「光と影のドラマ」。カラヴァッジョの魂を受け継ぎ、ルーベンスのダイナミズムを昇華させた画家たちが、一体どのような物語を紡いだのでしょうか?現存する貴重な作品の背景にある画家の生涯と、当時の時代精神を紐解きながら、その魅力を余すところなくお届けします。さあ、後期バロックの壮麗な世界へ、ご一緒に足を踏み入れましょう。
Tommaso Luini (1601-1636)
トマーゾ・ルイニという名前は、かつて17世紀のイタリアの画家ジョヴァンニ・バリオーネの著作で言及されたことで広まりましたが、現在ではトンマーゾ・ドニーニ(Tommaso Donini)が正しい本名であるとされています。彼は「イル・カラヴァッジーノ(Il Caravaggino)」というあだ名でも知られていました。
ドニーニの作品は、カラヴァッジョの影響を強く受けた劇的な明暗法(キアロスクーロ)と写実的な人物描写が特徴です。宗教的な主題の祭壇画を多く手掛けました。現存する確実な作品は多くないものの、初期バロック期のローマにおけるカラヴァッジョ主義の展開において重要な役割を果たした画家です。

La Circoncision (1632)
「割礼」(La Circoncision)は、キリスト教の伝統的な主題であるイエス・キリストの割礼を描いています。ユダヤ教の律法に従い、生後8日目の男子に施される割礼の儀式は、イエスが人類の一員として生まれたことを示し、彼の将来の受難を予見する出来事としても解釈されます。
この「割礼」は、かつてパリの「4国民学院」(Collège des Quatre Nations)の主祭壇を飾っていた歴史を持つ作品で、フランス革命期に接収され、1804年にナンシー美術館に収蔵されました。トンマーゾ・ドニーニのカラヴァッジョ主義的な画風を示す貴重な作品の一つです。
Jan Brueghel (1601-1678)
ヤン・ブリューゲル(子)は、フランドル・バロック期の画家です。有名な「ベルベット・ブリューゲル」こと父ヤン・ブリューゲル(父)と、さらに「農民ブリューゲル」ことピーテル・ブリューゲル(父)の孫にあたり、ブリューゲル家という芸術家王朝の第三世代を代表する人物です。
ヤン・ブリューゲル(子)の作品は、父の様式を継承しつつも、より明るい色彩と、わずかに粗い筆致が特徴とされます。彼は多作な画家であり、父の未完成の作品を完成させたり、父の作品を模写して販売したりもしました。
また、ピーテル・パウル・ルーベンスやヘンドリック・ファン・バーレン、ダーフィット・テニールス(子)など、同時代の著名な画家たちと共同制作することも多くありました。特に、人物や動物の描写は他の画家に依頼し、自身は風景や花、静物を描くという専門化された役割分担が見られました。

Ne me touchez pas (1625)
「我に触れるな」(Noli me tangere)は、新約聖書のヨハネによる福音書に記されている、イエス・キリストが復活した後、マグダラのマリアの前に最初に現れた場面を描いています。マリアがイエスを園丁と間違え、彼に触れようとした際に、イエスが「我に触れるな」(ラテン語で “Noli me tangere”)と告げたという有名なエピソードです。この言葉は、キリストの復活後の新しい存在様式と、神聖なものを軽々しく扱ってはならないという戒めを示しています。
Philippe de Champaigne (1602-1674)
フィリップ・ド・シャンパーニュは、17世紀フランスの最も重要な画家のひとりです。現在のベルギー、ブリュッセルで生まれましたが、1621年にパリに移り住み、生涯のほとんどをフランスで過ごしました。
彼は、カラッチやプッサンの古典主義、そしてルーベンスのフランドル・バロックの要素を融合させながらも、独自の厳格で抑制された画風を確立しました。特に、写実的な肖像画と、宗教的な主題において深い精神性を表現した作品で知られています。

La Charité (1635/36)
「慈愛」(La Charité)は、キリスト教の美徳を寓意的に表現したものです。慈愛は、信仰(Faith)と希望(Hope)とともにキリスト教の三つの神学的徳の一つであり、神への愛と隣人への愛を意味します。伝統的に、幼子に乳を与える女性(聖母マリアの母性や教会の慈愛を象徴)として描かれることが多い主題です。
Theodoor van Thulden (1606-1669)
テオドール・ファン・テュルデンは、フランドル・バロック期の画家、製図家、版画家です。現在のオランダ、スヘルトーヘンボスで生まれましたが、主にフランドルのアントウェルペンで活動し、晩年は再び故郷に戻りました。
ルーベンスの工房で培った技術と、彼自身の独自の感性を兼ね備え、フランドル・バロック絵画の普及と発展に貢献した画家として評価されています。

Persée et Andromède (1646)
「ペルセウスとアンドロメダ」(Persée et Andromède)は、ギリシャ神話の有名なエピソードを題材としています。エチオピアの王女アンドロメダが、母カシオペイアの傲慢さゆえに、海の怪物ケートスへの生贄として岩に縛り付けられているところを、英雄ペルセウスがメドゥーサの首を用いて怪物を石化させ、彼女を救い出すという物語です。
Charles Dauphin (1615-1677)
シャルル・ドーファンは、ロレーヌ公国のナンシーで生まれ、イタリアのトリノで亡くなった画家です。
彼の画風は、師であるシモン・ヴーエの「ローマ的」で古典主義的なスタイルを受け継ぎつつ、バロックの演劇的な構成要素も取り入れています。

Le Mépris du Monde (1645)
「世俗の軽蔑」(Le Mépris du Monde)は、抽象的な概念、すなわち世俗的な富や名声、快楽を捨て、精神的な価値や信仰に重きを置くという、キリスト教の教えに基づいたテーマを寓意的に表現したものです。これは、当時の対抗宗教改革期において、修道生活や禁欲的な生き方を推奨するカトリック教会の思想を反映しています。

Le Christ chassant les marchands du Temple (1663)
「神殿から商人を追い出すキリスト」(Le Christ chassant les marchands du Temple)は、新約聖書の福音書に記されている有名なエピソードを題材としています。イエス・キリストがエルサレムの神殿に入り、そこで商売をしたり両替をしたりしている人々を見て激しく怒り、彼らを追い出したという出来事です。この行為は、神殿が祈りの家であるべきだというイエスの強い信念と、宗教の商業化に対する彼の義憤を示しています。
Jan Looten (1617-1681)
ヤン・ローテンは、17世紀オランダの風景画家です。主にオランダで活動しましたが、後にロンドンに移住し、そこでキャリアを築きました。彼の作品は、そのドラマティックな表現から、フランドル・バロック絵画の影響も受けていると見なされることがあります。

Les Grands Chênes (1644/1645)
「大きなカシの木々」(Les Grands Chênes)は、ヤン・ローテンの得意とする劇的で荒々しい風景画の典型であり、彼のキャリアにおける主要な作品の一つとされています。
Giovanni Maria Morandi (1622-1717)
ジョヴァンニ・マリーア・モランディは、イタリアのバロック期の画家です。フィレンツェで生まれましたが、キャリアのほとんどをローマで過ごしました。
彼は、オラツィオ・フィダーニやジョヴァンニ・ビリヴェルトといった画家のもとで修行を積んだ後、ローマに移り住み、ヤコポ・サルヴィアーティ公爵の庇護を受けました。
モランディは、主に祭壇画や肖像画で知られています。彼の画風は、17世紀半ばから後半にかけてのローマ美術の主流であった、古典主義的で落ち着いたバロック様式を特徴としています。ベルニーニやピエトロ・ダ・コルトーナのような劇的な表現とは異なり、彼の作品はより穏やかで洗練された印象を与えます。

Le Pape Alexandre VII porté à la procession du Corpus Domini (1657)
「聖体行列で運ばれる教皇アレクサンデル7世」(Le Pape Alexandre VII porté à la procession du Corpus Domini)は、1655年に教皇に選出されたアレクサンデル7世(在位1655-1667年)が、聖体行列(コルプス・ドミニの祝日、キリストの聖体の祝日)において、特別な輿(セディア・ゲスタトリア)に乗って運ばれている様子を描いた、壮麗な公式肖像画です。アレクサンデル7世は身体が不自由だったため、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計した巨大な行列用の椅子に乗って運ばれることになりました。
Pieter Boel (1626-1674)
ピーテル・ブールは、フランドル・バロック期の画家、版画家、タペストリー・デザイナーです。生年は、資料によって1626年と記載されることもありますが、洗礼日が1622年10月10日であるため、一般的には1622年生まれとされています。
彼はアントウェルペンで生まれ、動物画家ヤン・フィートに師事しました。その後、イタリア(おそらく1650-51年頃)に滞在し、そこでジュゼッペ・レッコやジョヴァンニ・ベネデット・カスティリオーネといった画家から影響を受け、光と影の効果への関心を深めました。
ブールは特に豪華な静物画と動物画を専門としました。彼の動物画は、生きた動物を自然な環境で直接観察し、描くことで、当時の動物画に革命をもたらしたと評価されています。

Étude de faucons (1669/71)
「ハヤブサの習作」(Étude de faucons)は、ハヤブサの鋭い眼差し、羽毛の質感、そしてその猛禽としての力強い姿を、非常に詳細かつ写実的に捉えています。生きた動物を直接観察することによって培われた、彼の卓越した技術が光ります。
Johann Karl Loth (1632-1698)
ヨハン・カール・ロートは、ドイツ出身のバロック画家ですが、生涯のほとんどをイタリアのヴェネツィアで過ごしたため、「カルロット」(Carlotto)あるいは「カルロ・ロッティ」(Carlo Lotti)というイタリア名でも知られています。
カラヴァッジョ派のテネブリズム(劇的な明暗法)と、ヴェネツィア派の豊かな色彩表現を融合させた独自の画風を確立しました。

Saint Jérôme (1655)
「聖ヒエロニムス」(Saint Jérôme)は、キリスト教の四聖人の一人であり、ラテン語訳聖書『ウルガタ』の翻訳者として知られる聖ヒエロニムス(347年頃 – 420年)を描いたものです。
Giuseppe Recco (1634-1695)
ジュゼッペ・レッコは、17世紀イタリアのバロック期に活躍した画家で、特に静物画の分野で知られています。魚や魚介類、狩りの獲物、調理場を描いた静物画を得意としました。

Nature morte, écrevisse et poissons (1680)
「静物画、ザリガニと魚」(Nature morte, écrevisse et poissons)は、様々な種類の魚やザリガニといった水生生物が、まるで今捕獲されたかのように非常にリアルに描かれています。魚の鱗の光沢、ザリガニの殻の質感、そしてそれぞれの生物の目の輝きなど、細部にわたる描写が、見る者に触れるかのような臨場感を与えます。
まとめ
ナンシー美術館に収められた後期バロックの作品群は、17世紀後半のヨーロッパ美術がいかに多様で力強かったかを雄弁に物語っています。イタリアのカラヴァッジョ派が追求した劇的なキアロスクーロと徹底した写実主義は、トンマーゾ・ドニーニやヨハン・カール・ロートの作品に息づき、深い精神性を伴う宗教画を生み出しました。
一方、フランドルからは、ヤン・ブリューゲル(子)が父の伝統を受け継ぎながらも、その独自の感性で風景画に生命を吹き込み、「我に触れるな」のような神聖な場面を鮮やかに描きました。フィリップ・ド・シャンパーニュは、厳格な古典主義の中に深い内省を秘めた肖像画や宗教画でフランス美術に貢献し、テオドール・ファン・テュルデンはルーベンス譲りのダイナミズムで神話の世界を彩りました。
さらに、シャルル・ドーファンは師ヴーエの影響を受けつつも独自のバロック表現を確立し、ヤン・ローテンは劇的な自然風景で見る者を圧倒。そしてジョヴァンニ・マリーア・モランディは公式肖像画に威厳と人間性を融合させ、ピーテル・ブールは動物画に革命をもたらし、ジュゼッペ・レッコは静物画のリアリズムを極めました。
これらの作品は、単なる美術品に留まらず、当時の人々の信仰、社会、そして芸術に対する情熱を今に伝える貴重な歴史の証人です。ナンシー美術館を訪れることは、まさにこの後期バロックの豊かな世界に浸り、時代を超えた美の創造に触れる、比類ない体験となるでしょう。
ナンシー美術館の概要についてはこちらで詳しくご紹介させて頂いております。
ナンシー美術館に展示されている作品については、以下の記事で詳しくご紹介させて頂いております。
- ナンシー美術館でルネサンス芸術の輝きを体験!西洋絵画の夜明けを巡る旅
- ナンシー美術館で「知られざる巨匠たち」を発見!マニエリスムの魅惑的な世界を巡る旅
- 17世紀バロックの輝き:ナンシー美術館で出会う巨匠たちの光と影
- 壮麗なるバロックの調べ:ナンシー美術館で巡る17世紀後半の輝き
- ナンシー美術館が誘う、フランス絵画の黄金時代:17世紀バロックからロココの輝きへ
- フランス19世紀絵画の宝庫!ナンシー美術館で出会う巨匠たちの魂・アカデミズム・写実主義・ロマン主義
- 光と色彩の交響曲!ナンシー美術館で巡る新印象派・象徴主義・ナビ派の傑作
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地下にあるドームコレクションはこちらで詳しくご紹介させて頂いております。
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